
湯につかると体温より少し低い34度のお湯が、肌にしっとりとなじみ、やがて染み込むようだ。島根県美郷町の秘湯・千原温泉の源泉はこの湯船の下。すのこ板の下から温泉がしみ出す様子は、「源泉掛け流し」ならぬ「源泉湧き流し」とでも言うのだろうか。湯の表面にポコポコと湧いてくる炭酸ガスがはじける様子を見ながら時を忘れ、「このままずっとつかっていたい」という気分になる。
県中央部にある三瓶山の周辺には温泉が至る所に湧いている。三瓶山南麓の山中にある千原温泉は、中でも秘湯中の秘湯だ。2021年、温泉愛好家のサークルが「ひなびた温泉」を投票によって選ぶランキングで、断トツのトップになった。谷あいにぽつんと1軒ある温泉のロケーション、長い年月が刻まれた浴室の雰囲気、そして何より源泉が湯船の底から湧き出す泉質の「鮮度」が評価された。
1885(明治18)年に「温泉宿設置」と、地元の記録に残る。ただ、「湯谷(ゆんだに)」という集落名から想像すると、ここに明治以前からこんこんと湯が湧き、人々は日々の疲れを癒やし、山仕事や農作業で傷を負うと湯で治したのかもしれない。そんな想像を巡らせながらつかる湯はまた格別だ。
戦後は、広島の被爆者がやけどを癒やすのに訪れ、その効果がうわさを呼び、広島方面に根強いファンを持つ。今でも、効能のうわさを聞きつけ、全国から訪れる人が絶えない。
8年前から千原温泉の管理を受け継いだ田辺康文さん(73)は、子どもの時からお湯につかり育った。「後を継いでくれる人がいないのは気がかりだが、全国から訪れる人や毎日のように通ってくれる人のために、できる限り続けていきたい」と話している。
写真1:千原温泉で湯船の下から染み出るぬるめの源泉にゆったりとつかる人たち
写真2:谷あいを流れる川のそばに立つ千原温泉=右上の建物


- もりた・いっぺい
- 1968年、島根県邑南町生まれ。地方紙記者を経て、JR三江線の廃止を機に帰郷。町役場で働きながら、NPO法人江の川鉄道の設立に加わり、廃線跡にトロッコを走らせる。年間誌を発行する「みんなでつくる中国山地百年会議」事務局長。江の川流域広域観光連携推進協議会のメンバーとして広報を担当する。邑南町在住。