
島根県美郷町の湯抱温泉の奥にある鴨山公園から北西を臨むと、雨上がりのもやに包まれた鴨山が見えた。歌人・斎藤茂吉(1882〜1953)が後半生を捧げ、追い求めた「鴨山」は茂吉が見た当時の風景のまま、ひっそりと鎮座していた。
万葉集に収められた柿本人麻呂の辞世の歌、「鴨山の 磐根しまける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ」(鴨山の岩を枕にしている私を、何も知らずに妻は待っているのであろうか)。歌の前書きに、石見の地で人麻呂が亡くなる前に詠んだとあり、島根県石見地方であるとされるが、「鴨山」は美郷町湯抱以外にも益田市や浜田市など諸説あり、今も謎のままだ。
その探求に熱心に取り組んだ茂吉は、医師としての激務を縫って石見を18年間で7度訪ねた。湯抱温泉の旅館に投宿し、実際に鴨山も踏査した。手がかりを探し、地元での聞き取りを行い、ついにたどり着いた茂吉の結論が湯抱の鴨山だった。1937年、湯抱の調査の後で茂吉は、「人麻呂が つひのいのちを 終はりたる 鴨山をしも 此処と定めむ」(人麻呂が亡くなった鴨山をここ(湯抱)と定める)と宣言した。
湯抱温泉の入り口に立つ、鴨山記念館は平成3年に当時の邑智町が、茂吉の思いを後世に伝えようと整備。茂吉直筆の書や原稿などが展示されている。週2回の開館日には、全国から短歌の愛好家らが訪れる。来館者を案内する半矢惠彬(はんやしげよし)さん(83)は、小学生のころ、熱心な郷土史家でもあった教師から茂吉の研究のことを聞いて育った。「鴨山を追い求めた斉藤茂吉の執念を感じる」と半矢さん。
鴨山を巡る論争は今も決着がついていない。ただ、この小さな鴨山記念館がある限り、時を超えて人麻呂と茂吉、地元の人たち、短歌ファンをつなぎながら、茂吉の思いは後世に受け継がれていくだろう。
写真はいずれも佐々木創撮影
写真1:斎藤茂吉が研究と調査の末に、人麻呂臨終の地と定めた鴨山(写真中央奥)=島根県美郷町湯抱
写真2:斎藤茂吉直筆の書などを説明する半矢惠彬さん㊨=島根県美郷町湯抱、鴨山記念館

※この記事は2024年7月13日付の中国新聞に掲載されたコラムです

- もりた・いっぺい
- 1968年、島根県邑南町生まれ。地方紙記者を経て、JR三江線の廃止を機に帰郷。町役場で働きながら、NPO法人江の川鉄道の設立に加わり、廃線跡にトロッコを走らせる。年間誌を発行する「みんなでつくる中国山地百年会議」事務局長。江の川流域広域観光連携推進協議会のメンバーとして広報を担当する。邑南町在住。